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エージェントブログ

2022.07.15

【学びて時に】

某宗教にのめり込んだことにより一家離散し、その恨みから凶行に及んだ事件が世間を賑わせている。

 

事件に関してコメントは差し控えるが、宗教については論じておきたい。

 

信仰の自由は憲法20条で保証されている権利であるから、どのような宗教にのめり込もうが周りに迷惑をかけないという最低限のルールさえ遵守すれば、それは当人の自由である。

 

宗教の勧誘は私自身、これまでかなり受けてきたと思うが一切、お断りしている。

 

入信するなら納得するまで調べてから判断する。

 

献金主義のカルト宗教などが話題になることも多いいが、それだけ不安感を持っている人が多いということなのだろうか。

人間、生きていれば芥川でなくても「ただぼんやりとした不安」はあるものだ。

 

であるが自分でその不安を処置するだけの基盤を持っていれば流されることはないだろう。

 

不安が解消できなければ、人は甘い誘惑や自己中心的な妄想などに弱くなり、いかがわしい宗教の入り込むスキを与えてしまう。

 

なんせ自ら考えなくても、宇宙の体系から現在の問題まで、すべてを簡単な論理で説明してくれるのだから、そこに「真理」が存在すると思い込んでも仕方がないのだろう。

 

おそらくは「自分に何もない」という気付きと不安が、本人にとって真理に傾倒する根拠足り得るのだろう。

 

そのような傾向は以前からあるが、近年、とくに耳にする機会が多くなったのは「読書量」の不足も原因の一つではないだろうか?

 

本を読む・読まないは個人の自由であるが、読書は偉大なる叡智を持つ他者(そうではない本も多数あるが)との対話である。

この場合、必要とされるのは情報収集のための読書ではなく、「人格」として読む読書である。

 

そのような目的で本を選ぶのであれば、やはり「古典」がお勧めだ。

 

であるが、ドストエフスキーやニーチェ、ゲーテなどの古典文学を読んだことのある不動産業者にお目にかかったことがない。

 

せめて戯曲であるから読みやすいシェークスピアぐらいと思っても、これまたいない。

 

最近、某大学の文学部教授とお話をさせて戴いたのだが「文学部の学生でも、ニーチェあたりは読んでいませんよ。ましてやマルクスなんてとてもとても……」とのこと。

 

これまで自分が勤務した会社の「質」が低いため(実際にスーツの色が赤・青・黄色の方々であったから、そのとおりなのだが)教養を持った御仁がいないのだろうと思っていたのだが、そうではないらしい。

 

自分の方が「小難しいことを言う困った人」であるようだ。

スポーツに青春の全てを捧げ(勉強をおざなりにした事に対する言い訳である)競技を引退してから己がいかに「物」を知らないかを恥じ、それまでの愛読書であった少年ジャンプやマガジンの定期購読をやめ、いきなりドストエフスキーの「罪と罰」なんぞ読み始めたものだから周りからは白い目で見られた。

 

父親が教育者だったこともあり、幼き頃から夏目漱石や芥川、太宰などの古典に慣れ親しんでいた。

 

お陰で読書の素養はあったらしく、難解ではあったけれどもどうにか「罪と罰」を読み終え、ニーチェやゲーテ、孔子・孟子、マルクスなどへジャンルが広がった。

 

今でもこれらの蔵書を開き、部分的に拾い読みすることはあるが全体を読み通す気力はすでにない。

 

古典に共通することであるが、よほど精神的なエネルギーが充実していなければ太刀打ちできないからだ。

 

であるが、早熟とはいえぬまでも大学卒業後から「学び」続けたことは間違いではなかった。

 

教養を身につけようとしたが何から手をつければよいのか分からず、致し方がなく読書に走った訳だが、様々なサイトや出版者にコラムや文章を寄稿して報酬を得ている現在の状況を考えると、血迷って選んだ古典の素養が少なからず役に立っている。

「教養」といえば鼻持ちならないエリートを思い浮かべるが、本来そのようなものではない。

 

範囲やジャンルに捕らわれず音楽・文学・絵画などの芸術に通じ、それらから得た知識を咀嚼して自己の物とし、ゆえにバランス感覚に優れた人間形成をするためのものだ。

 

その中でも古典文学なんてのは、教養の基本であろう。

 

広い教養は、全てに紐付けられる。

 

たとえばダビンチの「最後の晩餐」を見たときにも、新約聖書を学んでいなければ理解出来ぬであろうし、多くの宗教画は旧約・新約聖書に関する知識が不可欠である。

 

戦争理解には宗教間における根の深い対立構造を理解することが不可欠であるから、イスラム教に対する理解も必要である。

 

信仰とは別に、各宗教の聖典を読むことは「宗教学」を学ぶ上で基礎となる。

ヨハン・セバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」などを聞くにも、そのような宗教学的な知識は不可欠であるし、ワーグナーの作曲思想を知るにも同様である。

 

このような傾向は、当然に古典文学にも及ぶから「教養」を得るためにはそれぞれの知識を得ることが欠かせない。

 

そのように学びを深めていけば法学や哲学、そして倫理学に統計学や地質学など、一見関係性もないジャンルの知識も得たくなるのだから時間が幾らあっても足りないのが知識人の実際であろう。

 

もっとも「それが何の役に立つのか?」と質問されれば「自分の役に立っている」としか言いようがないのではあるが。

 

記事執筆担当_不動産エージェント 奥林洋樹